ミレニアルズ、伝統、創造

Written by Shoya Imai

Business Insider Japan主催、ミレニアル世代の際立った才能や取り組みを表彰する新たなアワード「BEYOND MILLENNIALS(ビヨンド・ミレニアルズ)」。2019年1月17日、「Game Changer(ゲームチェンジャー)2019」に選出された44名+2組織と、グランプリ(大賞)の発表・表彰が、都内のホテルで行われた。


有り難いことにビジネス部門グランプリを受賞したWAKAZE代表@Parisの代理で、WAKAZE創業からの醸造責任者・杜氏として、授賞式に参加。壇上挨拶をさせていただき、限られた時間ではあるが感謝と今後への意気込みをお伝えしました。

[ついにグランプリ発表!2019年、世界を変えるのはこの人たちだ【BEYOND MILLENNIALS】]

まだ何も成し遂げていないという想いもありますが、周りの皆様に刺激をいただき、改めてこの機に、SAKEについて、伝統の中での自分たちの役割や僕の思う「創造」についてを振り返ってみました。乱雑な書き方となりますが、ご容赦ください。


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ミレニアルズとは「1000年単位の節目を迎える世代」とも捉えられるが、WAKAZEの取組むSAKEは、千年を優に超える時間軸で日本人が飲み手と造り手の関係性の中で育て上げてきたお酒である。

それがここ100年くらいで急速に小さく纏まってしまっている。
端的に言えば、「日本の中にいては自由なものづくりが出来ない」(もちろん制約こそが人間の創造性を喚起する、という議論もあるが、大きな流れの中では「制約を是と捉えるべきでない」と考えている。僕はそこに挑む戦い方を、多くの偉大な蔵から学んできた)。

酒造業は、国を支える産業として、明治〜昭和にかけて国の管理下に置かれ、免許なしには酒が造れない、免許があっても申請なしに新しいレシピで造れない、世界的には稀な構造が完成した。大らかな発酵の在り方を伝える「家庭醸造文化」も事実上断絶(アルコール度数1%以上の発酵は、「酒の密造」として違法行為にあたる)。

いまSAKEは百年単位の時代の波の極/転換点にある。様々な兆候が出てきている。明治以降の「学理応用」の機運、「吟醸酒と経済酒」の対立構造による工業化/合理化の波は、政治/経済/市場の激動による価値観の変化によって、ひとつの終わりの始まり(パワーバランスの変化)を迎えていると思う。その中で「日本酒を世界酒にする」とは、SAKEを「自由なものづくりの世界」に揺り戻すためのプロセスに感じる。

WAKAZEのファントムブリュアリー(委託醸造)、マイクロブリュアリー(自社醸造)の軌跡は、ルールの隙間を縫い、人に支えられ、漸くここまで来た。でもまだ足りない。

世界中でSAKEが造られる世界をつくる」。創業期からの夢。豊かな食の選択肢を創り、醸造酒としてのポテンシャルをもっと解放したい。
素材/人/地域の多様性に下支えされる限り、この大きなウネリは止まることがない。目の前の伝統らしい振る舞いをする百年を鵜呑みにせず、千年規模の変革を求める。


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長い歴史を持つものづくりに接しながら、これまで伝統とは何か考えてきたが、いま見える答えは「
伝統とは、統合(100→1)と伝播(1→100)の波」ということ。頑なに守ることが伝統ではないし、よく云われるゼロイチ(0→1)は視座を高めるほど存在し得ない。

※ゼロイチは結果論であって、正しくは0→N→1と僕は思う。0→N(input)とN→1(output)の過程を想像できない人から見ると、外形的に0→1に見えるだけであって、創造とはまず強烈なinputから生まれる。物事はパッと生まれないし、本気で0→1ができると思っているなら世界への無関心/不勉強にすぎない。世界は最初からNでできており、0→Nは意識がそのステージに立つこと。本質的にはN→1が物事を成していると僕は思う。
そして、これはピーター・ティールの書籍『ZERO to ONE』とも齟齬がない。なぜなら彼の問う「“誰も知らない”真実」とは、「誰も知らない」ことを前提としている以上、Nへの思考経路を必ず通る。「誰も知らない」状態を知るには、「誰よりも知っている」ことが必要だと思う(知識のみならず、知恵と想像力を含む)。

自分たちに出来る創造とは、100→1の統合を、1000→1や10000→1へと高次元に圧縮することであり、ある意味では99を捨てていくこと。大きな振れ幅をより高い次元へ。そうしてできた1が、次の1→100、1000、10000を生んでいく。そのためにコミュニケーションを大事にする。
これらは歴史(時間)や社会(空間)のなかでの“波”であり、役割分担のなかで繋がれるバトンでもある。

でも、自分は造り手なので、1を目指す。孤独をおそれず、ただただ誰も到達しえない境地だけを志す。その役割を、ものづくりとして担う。
創造とは、無限ともいえる可能性から「選択」する意志であり、視点を変えれば「捨てる」こと(断捨離)であり、しないことを決める「美意識」でもあり、大きな意味での「編集」であり、何より「個」をおそれないこと。

でも、同じくらい重要なのが、「包含」すること、インクルーシブであること。100→1なら99を、10000→1なら9999を受け止める懐をもつこと。その器の大きさこそが、創造の波及力を決定づける(そうでなければ、創造とは1の乱立/細分化にすぎなくなる。そもそもそれは「多様性」としてすでに身近にある前提条件でしかない。正鵠を射る「1」へと統合すること。分かつ壁のどちらにも立たず、俯瞰して弁証し、背負いながら選択し、次の次元へ向かうことが正しい創造だと思う)。


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「“世界中”でSAKEが造られる世界」とは、「“日本以外”の国でSAKEが造られる」ことだけを意味しない。つまり、「SAKEを生み、ここまで育んだ日本こそが“世界で最も”SAKEを造り、その裾野が世界に広がり、正統/正当な評価を得られる」ことを意味する。もちろん、ものづくりなので市場による競争/優劣は生じるだろうが、その新たな多様性が次の選択を生み、世界の食を次の次元へと運んでくれることと思う。

時空間に広がる大きな物事を自分の中に受け止め、微細な感覚と優しさを大事にし、自分というフィルターを通し、1を成し遂げる。これこそが表現であり、個の文化であり、創造だと信じる。